院長挨拶 根本啓行(1968~)

~来歴

医者を目指していた父庸光は、私立医大では入学金が高くて出せないと親(庄兵衛)に言われ、なくなく医療系を断念し、日大文理学部に入学しました。卒業後、研究室の教授から三年の約束で出向を命じられ付属三島高校の社会化教諭として赴きます。その1週間後に茨城県から日本史教諭として境高校に赴任するようにという辞令も届き、迷った末、三島での生活を選びました。しかしそのすぐ後に指導教授が急逝し、東京に戻れなくなってしまいます。そこで 植村敏夫(ドイツ文学者) の次女である母尚代と知り合い、私と弟が誕生することになります。

幼少時代はなぜか剣道ピアノを厳しく習わされました。これに関しては先生よりも親が厳しく、少しでもたるんでいると容赦なく手が飛んでくるというもので、とても憂鬱な思いをしたものです。そんな中、物心つく頃から鉄分の濃い電車大好き少年として育ち、折からのブルートレインブーム、Nゲージブームの時代は古きよき思い出です。

音痴も治ったので中学でピアノは中断しましたが、剣道の方はたまたま学校の隣が父の勤務先の日大三島高校だったため、部活が終わったあとも強制的に道場で稽古させられていました。当時は地区有数の強豪高として知られていた高校生部員の迫力のトラウマから、大変剣道が嫌いになりました。ただ不思議なことに、中2くらいから自分でも分からないのですが嫌いなはずのに急に強くなりだし、高2くらいまでは地元ではほとんど負けないくらいにはなりました。柄にもなく少しだけ尊敬されるようにもなり、また剣道が少し好きになりました。

高校の時には得点元だった化学を生かして製薬会社か化粧品開発でも、と思っていたのですが、記念受験に悉く失敗し、仮面浪人など憂鬱な々を過ごすうちに、ふと叔父敏行のセクシーな漢らしい白衣の後姿が、やけに脳裏にこびりつき出しました。 サラリーマンと違い、徒党を組まない、足の引っ張り合いがない、という自由業的な側面が、なにより強く印象に残った記憶があります。しかし大学(東京医科歯科大学 歯45)に上がったら、とりあえず歯医者はみな同じようなものだと高をくくっていた私は、あまり学業に専念することもせず、卒業のときに気がついたら留年と剣道の思い出しかないくらい打ち込んでしまいました。

今にして思うと、剣道の経験から学べる点としては、同じ量の努力をするにしても、自分と同レベルないしは低いレベルで行うよりも、質的に一段高い環境・レベルで集中的に行うことが非常によい結果を生むということです。これは中学のときの高校への出稽古、大学のときの警視庁道場への出稽古を通じて身をもって経験しましたので、私の処世訓にもなっています。

~スタイルの模索

大学院時代は天笠光雄教授のいる第一口腔外科に大学院生として入局することになりました。教授が叔父の同期なので、院試はあってないようなものでした。しかしひょんなことから、メインの研究を出向先で行うことになります。

そこでのテーマは、簡単に言うとオステオポンチン(OPN)というサイトカインの性質も持ち合わせる細胞外基質蛋白が、骨芽細胞や破骨細胞、その他の細胞と細胞表面の各種インテグリン(αvβ3やα4β1など)やモレキュール(cd44など)を介してどのような影響を及ぼしあうか、というものでした。当時与えられたテーマが、B16マウス悪性黒色腫細胞を培養して、オステオポンチンノックアウトマウス(OPN(-/-))と普通のマウス(C57BL/6 wild type)の大腿静脈および心臓に注入して、癌の転移の経過の差を追う、というものでした。

実はこの経験が、後の歯科臨床に大きな影響を及ぼすことになるのですが、当時はまったく気がつきませんでした。マウスはラットのように尾静脈でラインを取れないので、麻酔したマウスを仰向けに大の字にねかせてコルク板に貼りつけ、太腿を少し切開して、15倍のマイクロスコープで見ながら大腿静脈に細胞液を注射したのち縫合、閉創というやりかたをします。この、一連の操作を鏡視下で行う実験系で何とか定量性が出てきたので、ひたすらそればかりやっていた記憶があります。 また、実験の合い間を縫って、当時個人で飼っていたプディングジャンガリアン(♂)のかみ合わせが悪かったので、月に1度程度、麻酔して咬合調整などもこっそり行っておりました。

期せずして、裸眼では絶対にアプローチできない世界が存在することを学びました。不良修復物の再修復や根の治療にはマイクロスコープは大活躍です。これはすばらしいと思いました。

しかし、臨床を重ねるうちに、人間の手技による限界も見えてきました。たとえば歯が取れたとか悪くなったといってお見えの受診者の方の歯を見ると、あきらかに私よりも上手な先生が作られたものも少なからずあります。それでもしばしば取れたり隙間から朽ちてしまったりするのです。これは腕の良し悪しを超越した原因があるに違いない、と思いました。実際に、修復物の隙間はどんなに頑張っても数十ミクロンは開いてしまうのですが、お口の中の細菌の直径は数ミクロンです。

何か元寇の「てつはう」に原始的な弓矢で対抗する鎌倉武士のようなむなしさを感じます。

また、ある歯が欠損したときに、そこをどのように修復するかによって力のバランスや向きが大きく変わってきます。歯1本の処置が仮に満足のいくものだったとしても、お口や歯の機能は全体として成り立つもので、力のバランスがお口の機能や歯の寿命に大きくかかわってきます。卒業以来私が常に悩んできだのは、部分入れ歯の方が、バネのかかる歯ばかりがどんどん傷んで抜歯になってしまうことです。「前の先生には歯槽膿漏で歯が寿命だと言われた」というようなことをおっしゃる方が多かったのですが、それは力のバランスをしっかり整えなかったので残存歯が傷んでどんどん抜歯になっていたのです。もちろん、私よりもはるかに技量のある先生の作と思われる入れ歯でも同様の問題は数多く見られました。これではまるで入れ歯が合法的な抜歯補助装置のようです。

このような歯科レベルの問題とともに、入れ歯では噛み心地が悪いとか不便・不快といった問題が必ず付きまといます。不思議なことに、入れ歯の合わない方は調整中は非常に神経質で喜怒哀楽の幅が激しく感じられます(待合室では別です)。こういうことを申し上げると恐縮ですが、ほとんどの方はちょっと入れ歯が合わないだけでかなりイライラされます。少し調整して合うと、とたんに人柄がコロッと変わるので、こちらも非常に振り回されます。また同じ方でも、入れ歯でない歯の部分の治療の時には全くそのような問題はないのに、入れ歯の部分の調整のときだけは別人のよう変身するのです。入れ歯の方は生活レベルの問題でも本当にご苦労が多いんだなあと、いつもしみじみ思います。

これらの「私より上手な先生のトラブル」そして部分入れ歯にまつわる「歯科レベルの問題」「生活レベルの問題」は、従来の技術や学問ではどうして限界に当たってしまいます。そして、本ホームページにも書きました「予防の盲点」などの海外歯科事情の研究は、私たち日本の歯科医療の世界を根本から否定するものでした。

~インプラントで「治療」回避

無い知恵を絞って考えに考えた結果出て来た答えを端的に書くと『歯医者不要論』でした。

一般に知られている、痛くなったら歯医者に行く、などの自覚症状に依存する考えは、非常に危険であり、痛くなくても定期的にプロがチェックし、怪しいものがあっても萌芽のうちに摘み取る、無ければ無いことを評価する、というシステムでないと、私たちの歯は守られないのです。従来の、自覚症状や治療行為に頼る考えではなく、国のシステムや私たちの固定観念を含めて『予防』中心主義に移行する必要性を痛感しました。

また、部分入れ歯など従来的な欠損修復にまつわる問題として、健全な他の歯に依存して作られるために、例えて言えば支えの歯が過労死を起こして失われていってしまうことが全ての始まりです。入れ歯にまつわる「歯科レベルの問題」「生活レベルの問題」もここから始まっています。ですから必然的に欠損修復については

固定式であり、清掃しやすい
② 他の歯に依存して害を加えない自立式
③ 歯と同じかそれ以上に丈夫である

であることが求められてきます。

これらをクリアして、定期的にチェックできれば、入れ歯などにまつわる「歯科レベルの問題」「生活レベルの問題」など諸問題は一掃できます。それこそが

『インプラント』

であったのでした。

① 歯と同じように取り外さず使用できる
② 他の歯も楽をできるので全体で長持ちする
③ 丈夫なのでおいしいものを何でも食べられる

大学院の医局時代は、入れ歯が下手な歯医者が手を出す物だ等とバカにしていたインプラントですが、大学院修了後になって改めて非常に大きな意義を感じ、この多大な価値を何とか日本人に還元しようと一生懸命勉強しました。また、私の大学院の研究テーマはオステオポンチン(OPN)でしたが、所属先の分子薬理学教室のメインテーマは骨代謝の分子生物学でした。そしてOPNはこの骨代謝機構に非常に大きくかかわるのです。そしてこのあたりの理解はインプラントなど骨を扱う際に大きなキーになります。もう少し真面目に幅広く研究しておけばよかったのにと、学位取得後になって気がつきました。

~東日本大震災が教える『歯医者不要論』

2011年3月11日、東日本大震災が発生しました。

当歯科室も、停電、断水などでかなりの混乱がありましたが、震災後に非常に印象的だったのは、十年前後経過した差し歯や銀歯が「取れた」「欠けた」という方が大勢来院されたことです。これは震災前にはなかったことなので、大変驚きました。

あの頃は龍ヶ崎市でも1日3回くらい大きな余震も発生しており、慣れない断水・給水所通いに悩まされ、テレビでは津波と被災地の映像ばかり、原発が爆発して御用学者が右往左往という、非常にストレスと混乱に満ち溢れた時期でした。

これはどうみても、ストレスがブラキシズム(歯ぎしり・くいしばり)を誘発して、歯牙に過剰な物理的負荷をかけていたことの証左に他なりません。今まで「治った『ことにされていた』」修復物がことごとく崩壊してくるのです。
そして、ブラキシズムが引き起こすもうひとつの愁訴「知覚過敏」も、この時期大幅に増加しました。

「やはり、歯の治療は『治って』いなかった」

従来の治療行為が、震災の前に無力だったとは初めて知りました。

治ったと思っていても、隙間からの二次齲蝕などで銀歯やブリッジなどの修復物は年々弱っているのです。これらは初診時に視診やレントゲン読影でも判然としないことも少なくありません(むしろ判然とするようでは大問題ですが)。必然的に「治っている」ととりあえず扱わざるを得ません。

「治療とは何だろう」「治癒とは何だろう」

医科の事例も踏まえながら、いろいろ考えました。
すると、歯科には医科一般とは逆の特徴的な3つの点が思い浮かびます。

◆ 自然治癒力・復旧力がない
◆ 回避予防が可能・有効である
◆ 自覚症状が当てにならない

これらの気づきは、私にとって非常に大きなインパクトでした。
しかも歯科に限らず、さまざまな問題解決にも一般化して当てはめることのできる概念であり、私の臨床に限らず、日常生活一般にも大きな影響を与えました。

この概念についての詳細は、次ページ以降「歯科と"医科"」「歯科と"保険"」「正しい対応」に譲ります。

現在の私のメインテーマは、
◆欠損のない方に対しては『予防』~低侵襲◆欠損のある方にはこれに加えて『インプラント』を中心とした再生療法◆そして全てのバックグラウンドにあるのは『(従来的なスタイルの)歯医者不要論』
です。

さて、こうして見ると「なんだ、ここはインプラント中心の金儲け主義の歯医者なのか」と、つい思われるかもしれません。
しかし、本質的なところを考えると、そうではないのです。
今でこそインプラントは強くもてはやされていますし、積極機に推し進める大義もまだまだあると思われますが、数十年後はどうでしょうか?100年後はどうでしょうか?

そのころにまだそんなものが大手を振って歩いている、ということは、とりもなおさず「日本人の歯が危険な状態に置かれている」とか「『なぜ予防が必要か』などの重要な点がまったく浸透していない」ということを意味します。

そのころになったら、インプラントも一般歯科治療も、原則的にこの世から消滅していなければならない、そうでなければ日本人の不幸だ、と実は考えています。そのココロは、ぜひ本文中をいろいろ読んでご自身なりに推測してみてください。

開業に際しては、敏行が急逝して10年近くたっていること、私の実家が静岡の三島であることなどから、当地ではなく、双方からの便を考慮して県南のこの地にお邪魔することになりました。まだまだ私は己の未熟さを々痛感する体たらくではありますが、今の今まで人事運だけは良いせいか、少数精鋭ながら非常に優秀なスタッフにめぐり合うことができ、日々院長の至らぬところを補って余りある働きぶりで、心から感謝しています。

思えば今まで、生来の不器用さも手伝って贔屓目に見ても平均以下の人生で、しなくても良い苦労も結構してきました。ただ、ピンチに陥ったときは、ここ一番というところでたいてい周りの人に助けてもらってきたような気がします。また、師事した先生方はもちろん、私と折り合いの悪かった方々なども含めて、今までお会いした方々皆様が、何らかの教訓を私に残していってくださったような気も強くします。これからも、真のよき臨床、理想的な健康感の提示を目指して、スタッフ一同々精進を重ねてまいる所存です。

略歴

静岡県立韮山高等学校 卒業
東京医科歯科大学歯学部 卒業
東京医科歯科大学大学院歯学研究科博士課程(顎顔面外科学)修了
馴馬台小学校 校医
竜ヶ崎みどり幼稚園 園医